Profile

Chikako TADA
Photo by Noriko Masuda

食メディア「Pen & Spoon(ペンとスプーン)」代表・多田千香子でございます。効率を追いすぎず、よきものをペンですくいたいと起業しました。

これまでの経緯をつづります。(2021年2月6日改訂)

PROFILE 1 略歴:岡山大➨朝日新聞記者➨おやつ記者➨インド就職➨Webメディア

1970年、岡山・備前市生まれ。

岡山県立岡山朝日高校→岡山大学法学部卒。

元・朝日新聞記者(1993-2005、12年)。

退社後に渡仏。ル・コルドンブルー・パリ校製菓上級課程修了。

帰国してフリーの「おやつ記者」として自著・翻訳書7冊を出版。

40歳で出産。2013‐2020年とインド滞在。育児&現地採用として3社で勤務。

コロナ禍の2020年5月、1児とともに本帰国。2020年8月よりWebメディア「ペンとスプーン」運営。

フェミニスト。フルマラソンランナー(13回)。現在は福岡在住。

PROFILE 2 幼少~学生時代 : 母子家庭育ち、新聞記者にあこがれる

1970年、岡山・備前市生まれ。大阪万博のころは母のお腹の中でした。

終戦は1945年です。「阪神大震災から25年」(2020年)という報道にふれて、「<阪神>から、もうそんなに」と思い、ハッとしました。

私が生まれたのは戦後から「たった」25 年しかたっていなかった。ずいぶん後の世代のようでそうじゃなかった。私が何も分からぬ赤子のころ、まだ大人たちは深手を負い、静かにうずいていたんだな、と。

多田千香子の子ども時代、昭和の家族写真左の赤い上着姿が筆者(多田)、3歳ごろ。右は姉

父は1980年、38歳でなくなりました。私は小学4年生でした。その日の朝、バタバタと備前市民病院に行くことになり「きょうは体育があるのに」と思ったのを覚えています。

ある日突然、命は消える、という事実を刃のごとく突き付けられました。「時間は有限」は9歳のころに刻まれ、いまも心に入れ墨のように残っています。

多田千香子の卒業文集「新聞記者になって世の中にはばたくのだ」表紙は1982年当時の大ヒット映画「E.T.」がモチーフ

小学校の卒業文集に「新聞記者になる」と書きました。記憶では「世界にはばたくのだ」、だったのですが、実家に残っていた文集を数十年ぶりに広げたら「世の中」でした。自立したかったのでしょう。

書店は一軒もない町で、毎朝届く新聞と学校の図書室が世界への窓でした。「ラブおばさん」「ぶきっちょさん」「赤毛のアン」の料理本に「ノンノ・ケーキ・ブック」…当時からレシピ本も好きでした。

夕食の片付けをせず勉強していたら「勉強してなんて頼んでいない。皿洗いのが大切」というような母でした。父が払えなかった住宅ローンにひとり親、余裕はありませんでした。

会社から帰る母が待てず、料理を手伝い始めました。私のつくるハヤシライスやスパゲティを母はおいしいとほめました。「ハヤシライスはチカチャンね」と任せられました。

「塾に行きたい」と言うと「行かんでええ」でしたが「オーブンが欲しい」と頼むと買ってくれました。小4で生まれて初めてつくったお菓子はシュークリームです。

田舎から出たい一心で勉強し、県立岡山朝日高校に入りました。日本育英会の奨学金をもらい、JR播州赤穂線で通いました。

休眠していた英語サークルESSを復活させて宣教師のお宅までインタビューに行ったり、部室にあったガリ版を見つけて冊子を出したりしました。

Chikako
Chikako
書き手としてめざめたのが高校時代かも。タウン情報誌に「山珍の豚まん命」というペンネームで投稿もしていました。

1986年(高1のころ)、憲政史上初の女性党首として故・土井たか子さんが社会党の委員長に就任しました。

友人に誘われ、岡山市のホテルであった女性ばかりの講演会に行きました。2月ごろだったのでしょう。「バレンタイン 女たちは熱くなる」だったか、キャッチフレーズに震えました。制服姿の私たちに土井さんはほほ笑んでくれました。

あこがれました。おたかさんの写真入りテレホンカード(!)を買ったのを覚えています。女性の時代だ、エイエイオーです。

ところが高3で「母の壁」がありました。

「新聞記者になりたい」というと担任の先生は東京への進学を勧めてくれました。

母に言うと「東大ならいいけど」でした。浪人したらいけるかも…と正直、思ったのですが経済的に無理と分かっていました。「落ちたら働いて」という母でしたから。

Chikako
Chikako
奨学金など手だてはあったはずですが応援されず、私も「よし行く」にならず、でした。母子家庭&地方女子の悲哀です。

岡山大か東大か、の二択で地元に残りました。保育所から大学までオール地元の公立という最安コースです。ここまでは母の思い通りというか地方女子スタンダードですね。教育学部ではなく法学部にした(母は教員イチオシ)のが小さな反抗でした。

岡大時代の私は外へ出たい病にかかりました。

家庭教師で稼いで学費を払い、リュックを背負って旅に出ていました。ベルリンの壁が崩壊したドイツ、カナダ、タイ…。

キャンパスに戻れば友人が創刊した学内誌に旅行記を寄せ、反応があるおもしろさに目覚めました。

バブル景気が終わるころ就職活動をしました。先輩たちのような「パラダイス就活」とは程遠く、どのみち女子学生はあきらかに男子より後回しでした。

男子学生の下宿先には分厚い電話帳のような資料がずらっと並んでいました。私にはパタッと倒れる薄い冊子しか届いていませんでした。

世の中からの期待値がこれだけか、と。こっちこそ倒れそうでした。

Chikako
Chikako
いまはオンライン、あからさまに分かりませんね。学校社会は男女対等だったのに初めて現実をみました。

20社ほど受けて朝日新聞社に内定をもらいました。

「中学受験の時さぁ」「大学までエスカレーターで」「車の免許はアメリカでとった」などと同期が話すのを聞き、東京標準に身を投じた自分に気づきました。

ともかく夢だった新聞記者になり、岡山からの自力脱出に成功し「世の中にはばたいた」のでした(いまは最愛の故郷です)。

PROFILE 3 社会人時代:記者からフリー、また勤めてからの起業

1.朝日新聞記者:22~34歳

朝日新聞社では新潟・福山・大阪・福岡と勤務し、12年余りで退職しました。最初の5年は記者、後半の7年は編集者でした。

朝日新聞の入社案内に登場した多田千香子おそらく2000年の朝日新聞入社案内

念願の仕事は楽しくてしんどくて、とりわけ福山では「私には向いていないのでは」と悩みました。

でも会社というのはよくできています。つらくなれば転勤でリセットされました。

大阪で編集者になってがぜん、紙面に没頭しました。集まってくる原稿の価値を判断して扱い、見出し、レイアウトを考える部署です。

やりがいがありました。事件があれば真っ先に会社に駆けつけてひとり悦に入るような、仕事も職場も大好き人間でした。

福岡でガラスの天井にぶち当たりました。入社したのは男女雇用機会均等法の施行から8年目でした。上をみれば獣道を切り開いた超優秀な女性たちばかりで、パッとしない私のロールモデルにはなりませんでした。

おまけに新聞というのは命を落とした人の話が載るのが日常です。

子ども時代からの入れ墨「時間は有限」がますますたたき込まれました。

2.パリ留学からフリーランス:充実10年「匿名の投書」で強制終了

Grazia2007年12月号(おそらく)の特集ページ講談社の女性誌Grazia(休刊)2007年12月号の特集

 

フリーランスVer.1(パリ):34~36歳。10年ぶりのパリ行きがきっかけで「おやつを作って書く人になる」と決め、かられるように会社を辞めました。「朝日をやめると地獄に落ちる」ぐらいに思っていたのですが。

学生ビザにてパリ留学。ガリ勉していました。古巣オンライン版にコラム「パリ砂糖漬け」を毎週、書かせてもらっていたのが唯一の収入でした。ちなみに最初の半年(だったかな)は…ノーギャラでした。

パリ砂糖漬け
フランスのコルドンブルー留学記「パリ砂糖漬けの日々」復刊AmazonのKindle ダイレクト・パブリッシング(KDP)で「パリ砂糖漬けの日々~ル・コルドン・ブルーで学んで」(文藝春秋、2013年に絶版)を復刊しました。キャリアに悩む30代女性やパリ好きに送る1冊です。...

フリーランスVer.2(個人事業主、京都):36~40歳。「おやつ新報」との屋号です。京都の長屋でお菓子を教え、カルチャーセンターで講座を開き、お誘いがあればコラムを書きました。パリから帰国して4カ月後に開いた神戸のカルチャー講座は当初、参加者4人(1人は無理やり誘った友人)でした。

浮世離れした新聞記者で、ビジネス知識もなければ学ぶ気もなく「夢と勇気とサムマネー」とチャップリンのセリフを吐いていました。よくも悪くも…甘かった。食えていたのは奇跡です。

フリーランスVer.3 (インド):41歳~46歳。帯同ビザで渡印。1歳児を連れてインド生活が始まりました。ニューデリー近郊(グルガオン)の住まいで教室を開いていましたが辞めざるをえませんでした。詳しくは知りませんが「投書」がきっかけです。12年続けたブログも閉じ、SNSもほぼ辞めました。

3.インド就職を糧に起業:どん底からレジリエンス、本帰国。49歳の再挑戦

インド現地採用(派遣→正社員→契約):47歳~49歳。雇用ビザをとって堂々と働きたい。新卒以来25年ぶりに履歴書を書き、TOEICを受け、インドで就活しました。インドでは結局、3社に勤務しました。

1社目はメガバンクのニューデリー支店(派遣社員)、2社目はコンサルティングファームインド法人(正社員)、3社目は総合商社(業務委託)です。

1社目は派遣がせつなくて転職しました。日本も含めて100社近く落ち、ようやく入った2社目はさらに不適合でした。

Chikako
Chikako
3社目は神様がくれたごほうびでした。本当に救われました。仕事にも同僚にも恵まれました。

総合商社の業務部で経営企画サポートや総務を担当しました。給料をいただいてビジネスの勉強をさせてもらいました。

「インド人シェフに和食を教える」というタスクにも取り組みました。

シェフ2人にだしの取り方、コメのとぎ方をしてみせるところから始めました。慣れたらインドで手に入る食材で作れるようにレシピをアレンジし、伝えました。ひとつひとつは上手に作るのですが献立の組み立てや彩り、盛り付けが…。繰り返し教えました。

肉・魚・卵を召し上がらないインド人VIPのためのベジタリアン懐石コースも監修、好評でした。

多田千香子が手がけたインドで和食ランチ和食のワンプレートランチを監修。インド人にも好評

 

新型コロナウィルスの感染拡大もあって2020年5月、インドを去りました。

時間は有限、いろんな意味でGo homeしよう。少女時代から変わらぬ思いをかみしめジャンプしました。

PROFILE 4 English version:Chikako TADA’s CV

PROFILE 5 著書:多田千香子の著書・翻訳書