東京・明治神宮で2024年10月、結婚式に出席しました。新婦のミキさんとは「パリつながり」です。彼女の母・リサさんが2008年ごろ、私が大阪・難波のカルチャーセンターで開いていた講座を受講してくれたのがきっかけで知り合いました。ほどなくして私のパリでの活動に「母娘アシスタント」として同行してくれるようになりました。最初の旅は2010年11月、パリ9区にあるサロンで開かれた「和のおやつと音楽の夕べ」と題したコンサートでした。フランスのことですから開始も遅く、ミキちゃんは時差ボケもあったのでしょう、うとうとしていたのを覚えています。まだ小学6年生でした。
パリでの活動支えてくれた恩人
母娘2人とのパリ取材旅行を7~8回はしたでしょうか。当時、乳飲み子を抱えていた私にとって2人は恩人で、彼女たちのサポートなくしてはパリなどありえませんでした。母リサさんが乳飲み子をみてくれている間、私とミキちゃんは三ツ星シェフの料理教室に参加したり、パリのキュイジニエールの自宅でデザートを取材したり、フランス人相手に「和のおやつ」レッスンをしたり…。
私の「母校」となる料理学校ル・コルドン・ブルー・パリ校も、中3だったミキちゃんと再訪しました。シェフも生徒も通訳も丁々発止の真剣さが感じられ、留学当時は当たり前だと思っていたのが、遠ざかって久しくなり、とてもいい刺激になりました。ミキちゃんも感じ取ってくれたようで、終わった後の目の輝きと言ったら!私までうれしくなったのを覚えています。
10代だった彼女にとっては刺激的(もちろん私にとっても、でしたから)で、はからずも彼女の人生に大きな影響を与えてしまいました。
4人分の弁当をつくった中学・高校時代
ミキちゃんは中学2年には「プチボヌール」としてお菓子作家として活動するように。ミキちゃんが焼いてくれた「いちご味スノーボール」は絶品でした。さらに中学・高校時代にはお父さん、おじいちゃん、お兄さん、自分と4人分のお弁当を毎日、つくっていたそうです。
卵5~6個とだししょうゆでつくる卵焼きとプチトマト、野菜は毎回、必ず入れて、あとは冷蔵庫にあるもので作っていました。
薄切りの牛肉とレンコンを「食べるラー油」で炒めた一品は人気だったそうです。レシピは母が持っていたレシピ本や、YouTubeを参考に。週末にはホーレンソウやきんぴらなど、つくりおきを冷凍していました。
祖父母が家庭菜園で野菜を育てていたので、野菜は自家製です。キュウリを浅漬けにすると「ミキはいいものつくってくれた」と、とても喜んでくれました。肉じゃがや筑前煮が好きで「おばあちゃんの味とは違うけど、ミキのが好きかも」と、こっそり耳打ちしてくれることも。高校生の兄は鶏から揚げ弁当が好物で、お父さんのお気に入りはギョーザ弁当だったそうです。
カラのお弁当箱と交換で毎日100円、父と祖父からもらい、ウサギの貯金箱に入れていたそうです。大学に入って一人暮らしを始める際「100円弁当貯金」を元手に、高機能のオーブンレンジを買ったのだとか。7年目になったいまも使っているそうです。
食の道を進む
大学では食マネジメントを学び、千葉のハチミツ会社に就職。そのかたわらで海外からのツーリストに料理を教えるなど、食の道をまい進しています。細々すぎる私など、かろやかに追い越していったのだな…と結婚式当日、ドレス姿が幾重にもまぶしかったです。長くやっている実感はないのですが、振り返ると結構な道のりを歩いてきたのだな、と感慨深い一日でした。披露宴ではまさかの「恩師枠」で、乾杯のあいさつをさせてもらいました。私とミキちゃんはパリつながりですから、ここは「乾杯!」ではなく「フェリスィタスィオン!(フランス語で”おめでとう”)」でしょう。そう言って参列者にも「フェリスィタスィオン」を強要?し、言ってもらいました。
引き出物は食関連に携わる2人らしく、食の雑誌dancyuのカタログギフトでした。おいしそうな海の幸やおコメ、ブランド牛にもときめきましたが、私が選んだのは銅の卵焼きです。ミキちゃんに報告すると「卵焼きには思い出があって…」と、思い出を話してくれました。中高時代につくっていた弁当に毎日、入れていた卵焼きは甘くはなかったのですが、大学で参加した食文化研究サークルで初めて「甘い卵焼き」に出会って驚いたそうです。「今では甘い卵焼き、いいな、と」。私も両方ともつくりますが、ここでは甘くないほうを紹介します。
甘くない卵焼きのレシピ
道具
- 卵焼き器
材料
- 卵 - 3個
- 顆粒だし - 小さじ½
- 塩 - 小さじ¼
- ごま油(またはサラダ油) - 小さじ1